〇「善」とは、何か。
「善悪」を考える時、その基準となるものは、「命」である。なぜなら、「善悪」を問題とする人間という存在が生命体であり、生命体とは「命」の存在に依存しているからである。「命」なくして、人間は存在せず、人間が存在しないならば、「善悪」を考える事は不可能だからである。従って、「善」とは、人間という存在を保つこと、すなわち、「命」を保つこと、そして、「共存」である。
人間にとって、「命」は、その存在を成り立たせるために、不可欠のものである。そのことによって、「命」の価値は、絶対のものとなる。
その「命」の価値が、絶対的に大切なものであり、かつ、その「命」は、失われることのあるものであるがゆえに、「命」を保つことは、同じように、大切な行為、ということになる。
また、その「命」を損なうことは、憎むべき行為、ということになる。
その「命」が、失われることのないものであるなら、大切に扱う必要はない、となるかもしれない。どのように扱おうとも、失われることがないのだから、傷つくこともないことになる。
だが、その「命」が、傷つきやすく、失われやすいものであるなら、その「命」を傷つけず、失われることのないように、注意を払った扱いをしなければならない。
「命」は、失われやすいものであるがゆえに、失われることのないように、大切に扱われなければならない、ということは、「命」を保つということの絶対的貴重さを示している。
「命」を保つ、ということが、人間の存在にとって、不可欠な条件である、ということである。
人間にとって、「命」とは、その存在にとって、絶対不可欠の条件であるから、絶対のものとなる。
それがゆえに、その「命」を保つことは、不可欠のもの、絶対的価値あること、最も大切なこと、すなわち、「善」となり、「命」を損なうことは、その価値を否定すること、すなわち、「悪」になる。
命が、この世界に、一つしか存在していないならば、その一つの命が保たれることが、価値あること、善ということになるだろう。
この世界に、命が誕生した時、その命はたったひとつだったのかどうか。ひとつではなく、同じような構造ながら、いくつもの命が、ほぼ時を同じくして、誕生したのか。私は、おそらく命は、その誕生の条件が揃った時に、似たような構造の命が多数、誕生したのではないかと想像している。そのうち、生き続けられる命がいくつか、存在を続け、また、命は、誕生からさほど時を置かずに複製を作るという、つまり、自己再生、分身、子孫を作るという、分裂、再生をしたのではないか、と想像している。そもそも命は、複製を作るという活動なのではないか、そう想像している。
ともかく、命は、ひとつから、複数になった。
命は、ひとつではなく、複数存在するようになれば、それが自然で、標準の存在様態であるとなった、ということある。
命は、複数存在する。
命は、複数の存在なのである。
すると、その複数存在する命が保たれることが、複数存在する命の「善」ということになる、と考えられる。それは、すなわち、複数の命が共に生きる、つまり、「共存」である。
複数存在することが、命の標準であるならば、命の「善」とは、複数の命の存在が保たれること、すなわち、「共存」である、ということになる。同じことを繰り返して言っているようだが、なお繰り返して言うと、複数存在する命が保たれることが、複数存在する命の「共存」ということなのであるから。
命は、不可欠のものであるがゆえに、基本となる。
命は、複数であり、命の「善」とは、「共存」である、となる。
すなわち、われわれは、命を基本とし、命が保たれることを「善」とする、というところから、複数の命が保たれること、つまり、「共存」を「善」として、考えなければならない、ということになる。
従って、「善」とは、「共存」である、という結論に至るのである。
ゆえに、「共存」に沿うことが、「善」、となり、「共存」に反することが、「悪」、となる、第一義的には。
「善」とは、何か。
「善」とは、命を保つこと、そして、「共存」である。
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