〇国家とは、何か。
国家とは、何か。国家とは、限られた領域(領土、領海、領空)内に、基本的に言語を共通にする人間の集団であり、その人間集団の支配政体が発行する通貨によって経済が形成されている領域および人間集団の全体を指す。
〇国家ビジョンを描かせるものは何か。ひとつは、課題意識。もうひとつは、権力者の欲望。
〇国家の役割を考える。
国家の役割は、まず第一に、国家ビジョンの提示である、と考える。
ビジョンなくして、国家像の提示は不可能であり、国家像の提示なくして、国家の仕事を明らかにすることはできないからである。
国家は、その支配領域に住む人間の作るものである。だが、単に、居住する人間が集団になれば、国家となるのではない、と思われる。その人間たちが、集団として、どうその集団を運営していくか、経営していくかを考え、実行することなくして、その集団を維持し、発展させていくことはできない、と考える。
ゆえに、国家は、国家ビジョンを提示する必要がある。
国家ビジョンを提示すると、それに合った実行が問題になる。
国家ビジョンに合った実行には、まず、基礎として、3つの構造が存在している、と考える。
その一つ目は、通貨の発行である。
その二つ目は、通貨の管理である。
その三つ目は、産業の育成である。
以上の三つは、経済面の基礎である。
だが、そもそも、国家成立の前提となる、経済の根幹は、生産と交換である、と考える。
生産は、実物に限らず、精神的なものも含む、すべての客体となるものの生産である。すなわち、原材料とか、農林水産物とか、あらゆる加工品、工業製品のすべて、そして、美術、宗教的営為、芸術的、学術的、電磁的な成果、など、対象となしうるもの全てと、それらを形成することである。
交換とは、生産物の、及び、それに付随する権利の取引、譲り渡し、注文、依頼と提供などと、及び、移動、権利の保障、の確立である、と考える。
経済の根幹は、生産と交換であると考えるが、その二つに横断的に、根幹的にかかわるのが、通貨である。通貨がなくても、生産ができることがあり、交換もできると考えられるが、通貨が確立されることによって、生産も、交換も、確実に、効率的に行われることになるからである。
その通貨は、交換価値や交換体制が確立されなければ、その利用価値は信用できるものにならない。通貨の信用は、かつては金という希少金属の本来的な価値の高さが、それ自体によって、確立するものとなっていた。その利用価値は、基本的に今日でも変化していないので、金は依然として、通貨に近い価値を失ってはいない。だが、法治国家社会の確立によって、金ではなく、国家発行通貨が、法定通貨であることになっているので、法によって通貨と規定されたものが、通貨として通用する、流通することになる。
通貨が確立するために、国家の成立が必要なのである。
今日では、国家が、通貨を確立する。すなわち、国家が通貨を発行する。
そして、その通貨の価値は、有用性の確立にかかっている。その有用性の確立は、まず、その通貨が潤沢に存在していることである。通貨が枯渇してしまっては、経済活動が止まることになるからである。通貨を、潤沢に供給する、その一方で、その通貨によって交換される、物資やサービスが、対応するだけ存在するかどうか、が問題になる。それゆえに、産業の育成が国家の課題になる。
これが、今日の国家の姿である。 よって、通貨の供給と管理と、産業の育成は、国家の重大な責務であることになる。
中でも、国家が確立する通貨、国家が発行する通貨が、今日の経済の根幹にかかわる重大要素なのである。
国家の役割として、居住者、国民の安全保障がある。その実現のためには、医療保健体制、警察防衛体制、消防防災体制の整備がある。
これは、国家の安全保障の基礎である。
これは、国家が世界に一つではないことによって生じる問題でもある。
国家が世界にひとつではないことによって、国家には外交面の問題が発生する。また、外国との交易、対外交渉という問題も発生する。
〇国家経済を考える。
私は、国家経済を、すなわち、「財政」という言葉と同じとは、考えない。しかし、一般に「財政」というと、国家経済のことと理解されている向きがある。だが、財政健全化などという場合に、考えられていることは、国家経済の健全化ではないと思われる。考えられているのは、政府のバランスシートがどうであるか、政府が抱える負債をどうするか、ということである、と思われる。
基礎的財政収支の黒字化が、「財政」の健全化であると考えている人たちもいる。
そういう人たちの考えている、「財政」の健全化とは、税収と支出とのバランスにおいて、税収で支出を賄えているか、ということを問題にしている、と思われる。特に、基礎的財政収支を問題にする場合、その収入とは、税収のことであり、支出とは、国債費を除いた、政策的経費だけのことで、国債の償還費用を含まない、経済政策上のすべての支出の合計ことである、と思われる。
これは、財政法に規定された歳入の定義、また、歳出の定義から、考えているものではない。財政法によると、歳入とは、一会計年度における一切の収入をいい、歳出とは、一会計年度における一切の支出をいう、とある。
基礎的財政収支の健全化を問題視する人たちが考えているのは、歳入と歳出のバランスのことではない、と思われる。なぜなら、歳入と歳出とは、常に同額になるように調整がされたものであるから。いわゆる歳入不足と言われるのは、正確には、税収不足と言うべきで、歳入は、歳出に合わせて、税外収入、すなわち、公債、つまり赤字国債による収入によって不足が埋め合わされて、同額になるように調整されるものだからである。従って、歳入と歳出との間で均衡が取れないなどということは起きない。常に均衡が取れるように調整される。そのために、赤字国債を発行している。
問題にしているのは、その時々の税収で、その時の政策経費がどれだけ賄えているか、ということだろう。
しかし、単に、ある時点での税収が、その時点での政策経費をどれだけ賄えているか、を問題視するというのは、まったく合理性がない、と考える。
というのは、そもそも税が、政策実行のためにあるのだと考えているとしても、そのために制度設計がされて徴収されてはいないから、である。歳出が、税制の制度設計の前提にされていないから、とも言える。
(ただし、消費税については、社会福祉目的のものと規定され、使用目的が規定された、目的税であるので、それは、その消費税の合計で、社会福祉上の政策経費がどれだけ賄えているかを問題視するのは、合理性がないわけではない。だが、その税収が支出を超えて、黒字になれば、過大徴収、支出がその税収に満たずに黒字になれば、過少支出、となり、どちらの場合も、その税収は、不当な徴収にあたることになる。あるいは、支出が不当なものとなる。)
現行の税は、理念として税とは、政策実行のためにあると考えたり、規定したりしていても、実際には、税を徴収する制度設計において、賄うべき歳出を前提としていない。まず歳出がどうであるから、どれだけの税が必要であるかということを考慮しないで、ただいくらかの税を、ともかく徴収するという、政策や、費用確定の前に、先行的に徴収するという制度設計で制定された徴収方法で、現行の税は、徴収されたものになっている。
このような税収が、さまざまに変化する現実に対応して実行しようという政策の経費を、どれだけ賄えているか、と問題視する。それは、税収で賄うべきなんだから、という固定観念からに過ぎない。また、賄えない分は、赤字国債の発行に頼るのだから、それを認め続ければ、巨額な負債を抱え込むことになり、それは、国の財政を揺るがしかねない重大事だ、と考えるからによる、と思われる。
また、財政収支の健全化が、黒字化ということだとしてみよう。その場合、税収が、支出を上回ることを意味する。支出を上回る税収をあげることが、すなわち、過大徴収が、賄うための税として、合理的であると言えるのか。支出をともかく抑え込んで、税収より下回れば、黒字になる。その場合でも、ただ黒字にすれば、良いことになるのか。支出のために徴収された税を活か切っていないことになるのではないか。また、支出より多くの税を徴収したことになれば、それは不当徴収であることになるのではないか。
あたかも黒字にすれば良いことであるかのように考えるのは、企業会計で、利益をあげるのと同じ発想だからである。赤字になるのは、損失だから、マイナスなんだから、悪であると考え、黒字になるのは、プラスだから、善であると考える。(しかし、税収は、国家にとって、収益行為ではない。税は、利益ではない。)
財政収支の健全化とか、均衡を唱える人たちは、財政赤字になって、その赤字を負債で補って、しかもまともに返済しないで、次々と負債を積み上げ続ければ、いずれ破綻してしまうに違いない、と考えているようだ。だから、悪だ。やめなければならない、と考えているように思われる。
だが、こういう問題意識は、そもそも、通貨とは、国家が発行するもの、国家が発行するから存在するものだ、という事実を認識していないに等しい。
(中央銀行が通貨とされる銀行券を発行するのは、あくまで、国家が制定した法律による。中央銀行が、国家による法の制定の下で行うのである。中央銀行が国家に先行したり、優越したり、上位にあるのではない。その独立性も、国家が制定した法の規定による。国家の制定とは、国会の議決ということである。)
税を、国家の費用、国家の政策的費用とか、国債の償還費用とかを賄うためにあるものだ、と考えるのは、一見、当然のことのように思える。しかし、それは、通貨を発行する能力を持っていない者の発想である。
江戸時代など封建時代においては、米を俸禄とした。米を通貨のように俸給として扱った。米を税として納めさせ、そして、米を俸禄として与えた。そのように、米を通貨のように扱う場合においては、米を好き勝手に作ることはできない。採れた米、または、取り立てた米以上の米を、必要なだけ生み出すことはできない。また、金や金貨を通貨とした場合、金鉱をすべて公有としても、採掘された金以上には金貨を発行することができない。
こういう有限のものを通貨にすると、通貨を管理するほどの権力を持っているとはされながら、実際にある時点での費用を賄えるだけの通貨を、その支払いの時点で、実際に持っているかどうか、それが、物理的に問題になる。だから、費用を賄えるだけの収入、税収があるか、また、負債が巨額になれば、支払い不能に陥るのではないかと、心配することになる。
つまり、不足があるなら、いつでも、必要なだけ通貨を発行して賄うことができる、という発想がない。
しかし、現在は、銀行券という紙幣の時代。さらに、電子的決済の時代になっている。電子的決済とは、実際の紙幣の移動を伴わないで、通貨の収支が行われたとすることである。
ということは、時代的には、既に、通貨は無尽蔵に存在している、ということと同じである、と考えられる。潜在的に、無尽蔵に存在し、発行とは、それを顕在化させる行為なのである。
こういう時代においては、経済政策として考えなければならないのは、無尽蔵にある通貨の流動性の確保である。
そして、無尽蔵に通貨を所有しているのは、国家なのである。国家は、通貨を無尽蔵に、中央銀行に預けているようなものなのである。それを、旧時代的発想で、有限のものと考えて、不足を国債という負債で補い、負債を累積させていくのは、大きな間違いである。また、税は国費を賄うものとして、実際の市中の通貨の量、特に、流動性通貨量がどうであるかによるのではなく、ただ国費を賄うためのものだからと、賄えるだけの税を徴収するというのも、大きな間違いである。どちらも、実際の経済を危ういものにする。
税という回収制度は、実際の通貨の流通量を左右する。だから、通貨の流通量の調節に使うべきものなのである。
また、通貨は、通貨経済社会においては、生存を左右するものなのである。命に関わるものである以上、国家が、国民、居住者の生存を保証する義務があるのならば、通貨経済社会的にそれは、いくらかの通貨の給付を保証するという形で実行されなければ、実効性がないことになる。
〇国家は、国費を、国家発行の通貨で支払う。
その通貨が、税によるものか、新規発行によるものか、国債の販売によって、市中から集めたものかは、問題ではない。
自国通貨発行の国家は、国費を、自国が発行した通貨で支払う。それが、その国家の支払いの最低限の義務であり、その通貨が、税によるものでなければならないという必要や義務はない。必要なのは、その国家が発行した、つまり、自身が発行した通貨、自国通貨であることである。
通貨を発行する国家の義務は、その通貨を普及させることである。なぜなら、その通貨が、経済活動を支える第一の交換手段であると法律の権限をもって規定するのであるから。つまり、発行券を通貨とするのであるから。
〇国家の収支の均衡はとられるべきものなのか。収入と支出は均衡すべきだという根拠はなんなのか。由来が全く別のものである歳入、というよりも、税収と、歳出とが均衡すべきだというのは、根拠がないのではないか。考えるに、それは、歳出が歳入の範囲内に収められれば、赤字が発生しないというだけだ。それぞれ由来が別物であるのに、歳出は歳入額に制限されなければならないということになるのか。通貨は国家が用意するもの、国家には通貨発行権があるのだから、足りなければ、発行して補うことになんの不都合もない。
税という、通貨回収の制度は既に整っている。 市中に通貨が溢れることは、税を適切に運用して、通貨を回収すれば、避けることができる。
通貨は国家が用意して、国民に提供する。だが、国民は通貨を富と看做して、貯蓄する。貯蓄すると、通貨は、市場での流通量が減り、経済活動の手段としての機能を落とすのである。だが、保証する担保としての機能を持つものとなる。つまり、安心を作り出す。その機能を大いに発揮させたいと望む人は、できるだけ貯蓄しようとする。そういう人が多ければ多いほど、貯蓄額が増えれば増えるほど、使うことのできる通貨量、市中での流動性通貨量が減ることになる。その現象に対応して、通貨を適切な量、あるいは、潤沢な量、補うのでなければ、国家の経済活動量は、流動性通貨量が少なくなることで、縮小を余儀なくされてしまう。それを避けるには、貯蓄額が増えれば増えるほど、今では、様々な金融商品が開発されている今では、金融市場に流入する通貨量が増えれば増えるほど、発行量を増やして、金融市場ではない市場、流通市場での通貨の使用量、流動量が減らないようにしなければならない。そうしなければ、流通市場での通貨使用量の減少を招き、流通市場の経済規模の停滞、縮小を余儀なくされることになる。つまり、デフレ。 では、いかにして、通貨の供給をするのが、効果的なのか。 端的に言えば、ベーシックインカムを導入するのが、一番効果的である。
〇国家事業は必要があってするものであるとし、歳出と歳入、というよりも、税収とは、均衡すべきものであるとするなら、歳入(税収)は、歳出が決まってから、決定されるべきものとなるのではないか。歳出額が決まれば、自動的に、得るべき歳入額(税収額)は同額である。どれだけ税を集めるのかは、支出される歳出額が決まることによって、決まる。歳入額は、歳出額と同額となる。歳入と歳出は均衡すべきだとするなら。
だが、実際には、税は税で、歳出額との因果関係があるということではなく、それ独自に、歳出計上総額を考慮せず、いわば、勝手な計算式を作って、独立に考案して、徴収している。歳出額がどうであるから、あるいは、どうであったから、徴収するべき税の総額は自動的に同額であり、従って、割り振り額はどうなるという計算式で算出することが、一度として、行われていない。
それができないのは、年年で歳出額が変化し、その都度、変化した歳出額に合わせて、徴収する税額が変わり、それに合わせて、割り振り額を計算するのが、面倒であるからなのか。 あるいは、一定の計算式をある程度恒常性を持たせて運用することが、税の徴収の都合上、利便性が高いからであるのか。
利便性を理由とするなら、その時点で、プライマリーバランスの主張は、崩れているのではないか。
税の徴収額の決定の方法論が、プライマリーバランスを元に考慮されたものになっていない。
現行の税制のあり様は、その制定の前提に、いかにプライマリーバランス云々と語られていようとも、実際的には、歳出額に合わせて、同額が徴収されるように設計されていなければ、実質的に、プライマリーバランスは無視されている、ということである。 それは、プライマリーバランスが実際に守られて、歳出と同額の歳入が徴収されたということがないことでも、明らかである。
大体、例えば、景気浮揚のために多額の財政支出をして、歳出が決定されたとして、その政策実行のために、同額の歳入(税)の徴収をするとする。それが果たして、景気浮揚に資するのだろうか。何らかの理由により、市中の資金不足が生じて、不況が発生しているという場合に、多額の歳出を景気浮揚のために決定しても、その同額の歳入(税)を市中から徴収して、その支出に充てる。財政均衡論的には合理的なのかもしれないが、経済政策的に、景気浮揚に効果があることになるのだろうか。それが、貯蓄から徴収するということが効果的に実行されたら、話は別か。それだけの巨額の休眠資金としての貯蓄が市中に存在しているから、そこから、徴収して、流通市場に流すのだと。そんなことが、実際にできるかどうか。できれば、効果があるかもしれない。だが、預貯金に税を課すとなれば、銀行から預貯金が消えるだろう。だから、今あるような、利子税ということになる。金融所得課税を重くして、という話があるが、それで得られる額はどれだけのものか。
税収入で、歳出を賄うという発想が、そもそも間違っている、ということではないか。
税収で賄えるくらいに、歳出を少なくする以外に、税収で歳出を賄えるなどということが、実際にできるとは思えない。
国家事業は、必要から行われるものである。その必要から行うものを、それを賄えるように税を徴収しようとさえしていないのが現実である。現実の税制は、歳出とは無関係に、独立に税の負担感や、徴税の都合や、関係議員の力関係で決められたような各種の税の合計でしかない。そのような歳入は、収支は均衡させるべきという考えを実現させようとの思想の下に、設計されているとは言えない。制度設計の段階で、収支の均衡という考えを実現しようとさえしていないのである。なぜなら、税制の設計において、歳出額が前提になっていないからである。歳出額を前提として考慮しないで税制を考えること自体が、収支の均衡を考慮していない証拠である。
それとも、歳出は、自動的に、歳入額に合わせるべきとするのか。歳入額が優先され、それに合わせて、国家事業を編成すべきだというのか。そうすれば、確かに、収支は均衡し、赤字は発生しないだろう。それで国家の経営が問題なく行えるのであれば、もちろん結構なことだ。しかし、現実には、国家の必要が、収支の均衡という幻想を蹴散らす。心配する必要はないとも言える。
現実に、税制はプライマリーバランスを前提としては設計されていないのだから、プライマリーバランス云々という批判があり、政府がプライマリーバランスの実現に向けて努力すると答弁しても、税制がそれを実現するようにできていないのだし、従って、政府は、不足する税収を補うために、赤字国債を発行する。政府のしていることは、プライマリーバランスの実現を考えていない、ということである。過度に心配することはないとも言えるだろう。
プライマリーバランスの実現というのは、国家事業を必要から考えるのではなく、支出を考えないで得られた歳入額から考えよ、という、非現実的なものである。その実現は、国家を崩壊させるだろう。
〇「財政の健全化」とは、何か。
「財政の健全化」とは、何か。
これは、税収とは、政策的経費を賄うためのものである、という、伝統的な考え方に由来する。これは、税収で政策的経費を賄うのが健全な財政のあり方だ、という考えから出てくるものである。
「財政の健全化」を考えるためには、「健全財政」とは、何か、どういうものか、を明らかにしなければならない。
「財政の健全化」を目指すのは、現在の財政が「健全財政」から外れているから、そこに戻す、ということを意味している。
では、「健全財政」とは、何か。
一般に考えられている、伝統的な考え、というものを推測してみる。
伝統的な考えに従うと、税とは、政策経費を賄うためのものであるから、歳出、すなわち、政策経費に加えて国債費をも含んだ全ての国の支出は、税収で賄う、ということになり、この考え方に立つと、「健全財政」とは、税収で、歳出が賄われている状態、ということになる。
この考え方の非現実的なところは、その時々の国家経済の状態を考慮していないところにある。
なぜなら、歳出が多くなる時に、その歳出を賄えるだけの税収をあげなければならない、ということを意味しているからである。歳出が多くなるということは、それだけ国家経済に公的資金を投入しなければならない、経済的には苦境にあるから、歳出が多くなっているということである。それにもかかわらず、そういう時に、税収を多くして、市中から資金をより多く回収することになるからである。
そして、現実はどうかと言えば、税には、前提として歳出額が設定されていないものが多いので、税収で、歳出が全て賄われた、という歴史はない。
「健全財政」という観念は存在しても、それが実現することはないと思われる。
そもそも「健全財政」という考え方が、間違っている、と考える。
それは、税が、歳出額を前提として設定していないものがほとんどであることが証拠である。歳出額を賄えるように設定していないのである。賄えるように設定して、徴収していないのだから、そんな税収で、歳出が賄える訳がない。これが現実で、それであるのに、「財政の健全化」を唱え、逆転して、税収の総額以下に、歳出を合わせる、抑え込むのが、理想的なこと、そうするべきことであるかのように主張する。しかし、現実には、その主張は、いつも敗北している。現実の必要性を無視することができないからである。
だが、そもそもの間違いは、税は、政策的経費を賄うためのもの、あるいは、歳出を賄うためのもの、という考え方である。
税は、通貨の流動量を調節するためのもの、景気を調節する手段、また、政策的誘導のための手法のひとつ、と考えるのが、正しい考え方である、と考える。
そもそも、通貨は、国家が発行するものである。そして、税とは、通貨を直接的に回収するものである。通貨は、発行と税によって、その流通量が調節されるということである。
従って、税は、国家経済の状態に合わせて、通貨の流通状態に合わせて、どれだけ課税するか、税率を考えれば良いものとなる。歳出がどれだけであるかは関係がないことになる。歳出は、国家建設の計画に合わせて考え、税収で足りない分は、通貨の新規発行で賄えば良いのである。
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