〇存在とは何か。
存在とは何か。存在とは、人間にとって、認識である。人間は生命体であるから、世界を認識することができる。その認識によって、存在が知覚される。知覚されることによって、知覚する主体、知覚される客体が、それぞれ存在するものとして認識される。その両方が相まって、存在とされる。認識無くして、存在はないも同然のものとなる。しかし、実際には、認識がないだけで、実態として何物かが存在することも可能である。だが、認識がなければ、認識する主体にとっては、存在は認められないということになる。認識する主体にとって、存在とは、認識だからである。
〇自分基準で考えるのではなく、他人基準で考える。とすると、どうなるか。あるいは、自分ではなく、かと言って、ある特定の他人でもない、一般人を想定して、一般人基準というもので考える。としたら、どうなるか。 自分基準ではなく、と考えることが、一般人を想定することになる。
自分基準でなく、と考えるということは、他の人の場合はどうだろうか、と考えるということである。
自分基準ではなく、とすることは、自分の個性を除外することを意味する。
自分の個性を除外することは、人間性のすべてを除外することではない。人間性の内、自分だけの個性的な部分と思われるものを除外することを意味している。ということは、残るのは、共通部分ということになる。これは、自分ではなく、他人基準で考えてみるとすることでも、自分だからと思われるものを除外して、立場を他人にして考えてみることであるから、自分由来の特殊性を除外するという思考は、共通する部分で考えようとすることを意味している。ということは、他人基準で考えるとすることで、自分由来の特殊性を除外しようとすることは、一般人というものを想定することに近づくことを意味している。
ということで、自分基準で考えることをやめ、他人基準で考えようとすることは、一般人を想定することに限りなく近づくことを意味する、と考える。
立場を代えて考える方法として、他人基準で考えてみるということは、すなわち、一般人を想定することに限りなく近づくものとなる、と考えられ、公平性を考える時、なくてはならないものと考える。
その一方で、自分の幸福は、まず、自分基準で考えることになる。というのは、自分の幸福は、他ならぬ自分のものであるから、自分基準で考えるのが自然なことと思われるからだが、それは、どこで主張されるのか、どこで実現されるものなのか、が問題になる。というのは、他人と一切関わりのないもの、場所であれば、それは、完全に自分一人の問題となると考えられ、ならば、自分基準で考えることに何の支障もないことになると考えられる。
ここで、最も適切な事例がある。それは、薬物の使用である。特に一人で薬物を使用する場合、他人が存在しないから、他人の権利を侵害することはないと考えられ、完全に自分一人の問題で、自分基準で考えることに何の支障もないことと考えることが往々である。だが、法律はそれを禁止している。なぜか。それは、薬物が、正常性を奪うもの、失わせるものであるから、である。正常性を奪われた人間、正常性を失った人間が、ただその場で意識を失って死に至るだけならば、実質的には何の問題も生じないだろう。しかし、実際には、薬物によって正常性を失った人間が、その場を離れ、他人に危害を及ぼすことが多々発生した。そのことによって、正常性を失わせる薬物の使用そのものを違法行為とし、禁止することにしたのである。所持するだけで有罪とすることで、薬物への接近を回避させることにした。薬物の有害性の高さゆえである。自分一人の問題と思われても、そのことでどんな影響が他人に及ぶことになるか、最大限に考える必要がある、ということである。
〇「命」は、個体に宿る。
「命」は、個体に宿るものである。個体に宿るのではない「命」は、可能性の「命」として、観念として認識できるものでしかない。それは、現実的な存在ではない。現実的な存在としての「命」は、必ず、個体として存在する。単細胞であるか、多細胞であるかの違いはあっても、個体として存在するものであって、個体として存在するのではない「命」を考えるのは、あくまで観念的な「命」の概念でしかない。
「命」は、個体に宿る。
それゆえに、「命」は、個性を持つものとなる。また、それゆえに、主体性を持つのである。
〇「原罪」とは、何か。
私の考える「原罪」とは、命を保つために、他の命を奪うことである。すなわち、自分の命を保ち、養うために、食物として、植物にしろ、動物にしろ、他の命を殺し、摂取することである。
それこそが、本来的な「原罪」、ほとんどの植物などの自立栄養生命体ではない、他立栄養生命体の根本的な「罪」、「原罪」である、と考える。
では、それに対する、「贖罪」とは、何か。
それが、問題なのである。
その答えのひとつとして考えることは、科学技術の進化で、いつの日か、植物のように自立栄養が可能になれば、「原罪」から解放されるだろう、ということである。
それは、例えば、無機物と光合成から、栄養物の生成、アミノ酸の生成が、工業的に、安価に可能になれば、達成できるのではないか、と考える。
だが、これは、自然からの乖離になってしまうものなのか。自然の恵みを拒否しているようなものなのか。無機物と光であっても、自然の恵みではないか、と考えれば、無機物と光からアミノ酸を工業的に生成しても、自然の恵みを受けているものに違いないと言える筈だ、とも考えられる。
だが、その場合に、植物などの自然生成由来のものに劣るものしか生成できないのであれば、それに取り替えることはできないだろう。自然生成のものよりも優れたものが生成できる場合でなければ、切り替えは起きない。それが、できて初めて、根本的な「原罪」からの解放が達成される。
根本的な「原罪」からの解放が達成されるまでは、「贖罪」は、課題として残る。
〇「義務」とは、何か。
命が基本である。というところから、命を保つためにしなければならないことが、「義務」の始まりである。
命を保つためにしなければならないことが、命の「義務」だ、ということになる。
人であることを保つためにしなければならないことが、人の「義務」だ、といことになる。
社会を保つためにしなければならないことが、社会の「義務」だ、また、社会の構成員の「義務」だ、ということになる。
〇誕生とは、何か。
誕生とは、分離である。
自己という存在が、世界から分離して、存在するようになることである。
誕生とは、世界からの分離である。
世界から分離することによって、世界を認識することができるようになるのである。
よって、私の誕生とは、私が、世界から分離した、ということを意味する。
それがまた、私の存在に、根本的に潜在する、不安や恐怖の原因である。
〇世界の誕生とは、何か。
誕生が、世界からの分離あるとすると、世界の誕生とは、何からの分離であるのか。
全ての存在は、それ自身から誕生することはできない。
全ては、非自身からの誕生なのである。
すると、世界は、非世界からの分離ということになる。
非世界とは、どういうものか。
世界が、物質ででき、物理法則に支配されているとするならば、非世界とは、非物質ででき、物理法則に非ざるものに支配されたものということになる。
非世界とは、非物質ででき、非物理法則に支配されたものである。
〇死とは、何か。
死とは、合一である。
自己という存在が、世界に融合、合一して、なくなることである。
死とは、世界との合一である。
世界と合一することによって、世界と不可分となり、世界を認識することができなくなるのである。
〇我々はどこから来て、どこへ行くのか。
我々は、世界から来て、世界へ帰って行くのである。
我々は世界から生まれ、死んで、世界に合一する。
〇神と肉体
何がこの肉体をもたらしたのか。
肉体は、自然がもたらし、自然は、宇宙を含む世界がもたらした。
そして、世界は、何がもたらしたのか。
そう考える時、神的なものの存在に思いを致すことになる。
しかし、人間にとって、基本は、神にあるのではない。
神が基本であるのではない。
人間にとって、基本は、この肉体である。
肉体が、人間にとっての基本である。
その意味で、人間にとって、肉体が神である。
人間にとって、肉体以上の基本はない。
〇存在とは、何か。
存在とは、人間にとって、ほとんど認識である。
その認識とは、感覚と判断である。 感覚しているだけでは、存在を認識しているとは言えない。感覚しているものが何であるかを判断して、初めてそれは存在として、その人間に対して、立ち現れることになる。
それは、空想でも、判断が伴えば、存在になることを意味している。
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